Total Treatment Centerのつぶやき「看脚下」

京都市下京区の鍼灸院が日々で感じたこと思うことを呟いているブログです。

経験談です

2019年4月25日(木)

 

おはようございます

黙祷

 

雨が降ったような降ってないような…

寒いような暑いような…

蒸すような乾いてるような…

複雑な時季です。

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学校を楽しんでいる様子のRenさん。

同級生、上級生と遊べるのが楽しいようです。

帰ってくるたびに「きょうは、お、のれんしゅうした」と、平仮名を1日1個練習したことを報告するようになりました。

覚えるのも楽しいのかな?

音読は詰まりながらも読めているようですが、私は音読の必要性を感じていないので気にしていません。

好きに読んだらええ。

けど、関西弁と標準語が混じってるのは変な気分。

 

先日、ちょっとしたことなんですが本当の意味で鍼一本にどこまでできるのか、というのをもっと突き詰めたいと思うと同時に、鍼だけでは難しいこと、その両面を患者さんの身体から徒手検査を通して実感しました。

この1年ちょい、原因=症状ではないということを実感してもらえるようになりましたし、整おうとしている身体にとって適切な刺激場所、刺激強度を此方も高めることができるようになったと思います。

それもこれも徒手検査の精度が上がってこそなんですが、ベターではなく今のベストを選択できる。

 

確か、師匠が知人に英語を教わった時に「日本人は勉強の【study】ピースの揃っていないパズルになっているから英語が身につかない。必要なのは【learn】つまり積み重ねるという学習にならなければならない」と云われたそうです(合ってたかな?)。

 

鍼灸の学校なんかは「国家試験に合格する勉強」であって、臨床で使えるとイコールではない。

文献として紹介はしてくれますが、方法論になっている。

講習会は「明日から臨床で使える」というものばかり(これも方法論)。

その間というか、以前がない。

本来、臨床で使えるようにするにはそれ以前の「触れる」や「評価」ができていなければ到底使えるようにはならないし、似て非なることをそれに当てはめてしまい小事、大事に至ってしまう。

「明日から使える」というのは裏を返せば「そんなに特殊な症例はない」ということも伝えてくれているのですが、それを判断する評価が抜けていれば当然の結果です。

(これは私が経験しているから書けることでもあるんですけどね)

 

確かに伝える側は伝える時が最新バージョンです。

しかし、それは上書きされたことであって、それ以前のバグが重要で、しかもそれをどうやって気づいたかというところがさらに重要で、ってことは1度や2度、その先生の話を聞いただけでは「明日から使える」方法は身につかないわけです。

つまるところ、明日から使うには確かな評価と相当な覚悟がいるということです。

「明日から使える」を勉強ではなく学びにするには、そこから自身の中で遡る必要がある。

それをどこまで突き詰められるかが、基礎基本になるのですが…そこまで考えて伝えている、または受講している人がどれだけいるか。

私は受講するたびに落ち込みます。

伝える時なんかはもっと。

基礎基本が甘すぎると、参加された方や師匠方に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

だから端折って伝えられないんです。

伝えたとしても次の機会にそれの少し前、もっと前、というそこに至ったことも伝えないと、腑に落ちない。

 

とかなんとか言ってますが、これはあくまでも私個人の経験ですから、誰も悪くない。

私が学ぼうとしていなかったということだけです。

その失敗…というと語弊がありましが、こんな話が誰かの何かに繋がるのであればと思います。

あ〜恥ずかし。

 

それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!