Total Treatment Centerのつぶやき「看脚下」

京都市下京区の鍼灸院が日々で感じたこと思うことを呟いているブログです。

動いてみ

2022年1月28日(金) 9時〜19時

 

おはようございます

冷たいと感じる朝

朝ドラのおかげで気分は温い

f:id:tsuji-shinkyuin:20220128075013p:image

f:id:tsuji-shinkyuin:20220128075020j:image

f:id:tsuji-shinkyuin:20220128075026j:image

施術予約の際は此方でご確認ください

https://tsuji-shinkyuin.hatenablog.com/entry/2020/12/31/174838

随時更新してます

(休診は赤短縮は青ゴールデンウルヴス福岡は橙・平常通りは黒)

 

鷲田清一「悲鳴をあげる身体」(PHP新書)140項より

習慣知、実践値はあきらかに身体に住みつくのだ。運動のひとつの図式として。

ある状況に、あるいはある異性に、からだがなじんでいるという表現がなりたつのも、身体に記憶があるからだろう。アランという哲学者は、「体育家は幸福を手や足で復習する」だとか、「身体にも一種の退屈がある」とか、「期待とは運動を他の運動で麻痺させることだ」とか、「身体の動きがなくては思想を形作ることはできない」とか、「涙はある鎮静作用であり、発作の解決のようなものだ」とか、心身の入り組んださまを的確に表現しているが、これらを比喩としか理解できない思考のほうが、人間についての二元論的枠組みに縛られているようにみえてならない。

 

【期待とは運動を他の運動で麻痺させることだ】

 

これは思い当たる節がとてもある

方法論としてしまうと、です

SNSや報道とは名ばかりの情報番組でもよく見受けられること

これよりはあれ、あれよりはそれ、それよりはこっち、こっちよりはあっち…

と、「こうなるためには(こうなりたいなら)こんな運動がいい」と抑を問わずに上っ面を、体裁を整えるようなものを次々と紹介して視聴者を麻痺させている

受け取る側が問われているのだ

 

知識というのは何も教科書に書いてあることだけではない

BEGIN(私が好きなだけです、BEGINが)も歌っているが、「島唄」の歌詞に出てくるではないか

教科書に書いてあることだけじゃわからない、と

それが身体知、習慣知、実践知、でしょう

身体にある記憶

それをどう解釈するかは今の私次第

ですが、何事も抑から問えばその時々の解釈ではなく、その深さ、濃度が異なると思う

 

患者さんから「テレビなどでこんな運動が紹介されててやってみたんやけど」と相談されることは多々ある

その都度、その人の身体にとって足しになっているのか負荷になっているのかみます

そしてその運動がなぜその運動方法に至ったのかと考えたり、なぜその人がそれを取捨選択したのかを考えたりする

まあ答えなんてのは出ませんが、実際にその運動をやってみると考えているよりは気づくことがあるように思う

机上の空論じゃないけど、やってみないと気づけない

 

身ひとつ

動いてなんぼ

まずは日常から

いつもよりゆっくり丁寧に動いてみてはいかがでしょう

 

それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!