Total Treatment Centerのつぶやき「看脚下」

京都市下京区の鍼灸院が日々で感じたこと思うことを呟いているブログです。

私へ

2022年5月21日(土) 9時〜19時

 

おはようございます

夢か現か、雨音が…

起き上がったら雨やった

乾燥がマシになればいい

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施術予約の際は此方でご確認ください

https://tsuji-shinkyuin.hatenablog.com/entry/2020/12/31/174838

随時更新してます

(休診は赤短縮は青ゴールデンウルヴス福岡は橙・平常通りは黒)

 

どれだけ準備をしてもそれが報われるとは限らない

でも、そのことに尽くしたという経験は残る

あとはその経験を、過去の栄光という名の自己満足を手放せるか

なぜなら"今"を生きているから

 

とはいえ、思い出話に花が咲く

パワーポイントを使っての授業や講座で、いつまでその画像や資料を使ってるん?と思うことがしばしばある

特定の思い出話をしたいんだろうな

でもそれって過去の栄光という自慢話にしか聞こえなかったりする

情報を精査して更新しているかと思えば逆行して過去に依存している資料提供は少なくない

内容が抑なんだったら思わないだろうし、そこからまた深めることができるけど

言葉より画像で伝わることもあるが、画像も言葉同様受け取る側を盲目にすることができる

画像(視覚)は言葉(聴覚)より厄介かもしれないと私は考えている

肌感覚(触覚)や運動感覚(位置覚)として情報が入ってくる方が、言葉より画像より伝わると実感しているがこれはこれで思い込みが生まれるので、時には他者の介入が必要かと

(五感で厄介なのは視覚かな、視覚以外をフルに使って情報を受け取りたい、受け取れるようにしたいな)

 

なんにせよ

その情報を得るということが能動的か受動的か

そのあとどう深めていくか

なんだろうな

 

難しく考えてんと目の前のことに尽くせばいいだけや

と、私は私に云ってみた

 

それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!