Total Treatment Centerのつぶやき「看脚下」

京都市下京区の鍼灸院が日々で感じたこと思うことを呟いているブログです。

検討にさらす

2022年10月7日(金) 9時〜18時

 

おはようございます

しっかり雨です

今夜から福岡入りなので、駅までの道のりが濡れそうです

ってことで、明日は休診となりますので悪しからず

連絡は取れるようにしております

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施術予約の際は此方でご確認ください

https://tsuji-shinkyuin.hatenablog.com/entry/2020/12/31/174838

随時更新してます

(休診は赤短縮は青ゴールデンウルヴス福岡は橙・平常通りは黒)

 

防水の服を持ってないので着替え要るな

気温も下がってきたので濡れると体温奪われやすいですからね

靴下多めで行きましょう

 

探究が言語的な性質をもつということは、それが社会的、文化的、慣習的な次元を根本的に含んでいるということである。なぜなら、言語や記号はそれを共有する社会や慣習があって初めて、意味をもち示唆を与える力をもつからである。そうであるとすれば、探究の帰結としての「検証された仮説」とは、まさにその言語の共同体において、とりあえず検証され、確定的なものとみなされたという意味で、「言明可能な信念だ」ということになる。
探究の結果は、経験的なテストを通じて確証されたという意味で、たしかに「保証」されている。しかし、その保証は、それを生み出す社会的、慣習的な背景をもった仮説形成の過程においてのみ有効であるという意味で、けっして絶対的な意味での確証ではないし、いわんや伝統的な哲学の意味での「客観的な真理」ではない。それはあくまでも、問題状況に依存し、言語的な習慣に依存し、その時代に示唆可能であった仮説に依存しているという意味での、限定された意味での保証つきの信念であり、いいかえればまさに「保証つきの言明可能性」なのである。
ところで、デューイはもちろん、以上のような探究の理論を通じて、「この世界には客観的な真理などない」といっているわけではない。そうではなくて、われわれが真理といっているものも、その内実、キャッシュバリーは、「保証つきの言明可能性」といっているのである。私たちはそれぞれの探究の結果を共同体の討議へと付して、それが承認されるべき、評価されるべき仮説や信念であるかどうかを検討にさらす。探究とは一方で仮説の形成とテストであると同時に、その承認のプロセスでもある。

 

_____伊藤邦武「プラグマティズム入門」 (ちくま新書)より引用_____

承認されるべきことかどうかは置いておいて

なんでもそうだと思うんですが、評価に値することの仮説や信念であるかどうかを検討にさらすことは大事

自己満足になってお山の大将を気取ってるだけの事は世の中に掃いて捨てるほど溢れているし、検討に晒すことすらしていないことは少なくない

検討にさらしたとしてもその結果が思い通り出なかった時、踵を返し去っていく人もいる

ということはその信念や仮説は、思いたいように思い、感じたいように感じている、ということが現れているのだが、それが真理だとか結果が出てるんやからと文句を垂れる

なんとも残念である

 

結果が全てではあるだろうけど、その結果とは誰の何にとっての結果なのか

そしてその仮説や信念は何を前提としているのか

その辺りが、抑に沿っていればそんなに違えることにはならない

だからぐうの音も出ん

受け取るしかない

受け入れるまでには、それが身になるまでには時差が伴う

 

施術では常に仮説と反証を繰り返している

整形外科学の徒手検査がそれにあたる

ただこれも技術という面があるので、それを行う人によって質が異なる

だから練習会や勉強会で確認しあう

行っている検査の質が検討に値しているか否か

 

結果は、現実は、いつも辛さを伴う

その辛さをチャラとまではいかなくても軽くなるには、まずはこの辛さを受け入れるしかない

私にとってはそれが「できなささ」である

完璧を目指すあまり、できなささを認めず、できてるつもりで進めてしまうと落とし穴にはまる

それが地獄蟻だったとしたら、もがけばもがくほど埋もれていくだろう

まずはその穴にはまったことを認めること

でないと出る方法は見つからんし助けも呼べん

仲間の存在はそうしたことに気づかせてくれる

ただ、イエスマンの集まりは仲間ではなく絶対君主制とか独裁制みたいなやつやしご注意を

(私もそうなってないか外に出るが、罵倒や否定が好きなわけではないです、今私が何をどう考えて行っているかの確認です)

 

それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!