2019年1月31日(木)
おはようございます
今日は天気悪いみたいですね。
アスファルトやタイルで滑って転けませんように。
にしても21時の予想天気図、荒れそうです。
2月27日(水)11時〜に決まった次回の武田双鳳先生の書法とヒモトレのコラボ講座「ショヒモトレ」
先日は創作四字熟語の書き初めでした。
普段しない姿勢をすることでその人が、体がより強調されて浮かび上がってくることを知りました。
ですが書き初めのように四つん這いが普段しない姿勢というのも、なんや日本人の体から、進化の過程から観ても、残念な気持ちが出てきます。
あくまでも私個人の感想ですが。
普段しない姿勢をしなくても、双鳳先生は「書は体をうつす鏡、レントゲン」と仰います。
ショヒモトレを通して書道と向き合うことでそれは毎回、回を重ねる毎に深まっている。
四つん這いで何かをするというのは、ちょっと不便な時代なら当たり前でした。
雑巾掛けなんてのは、畳の目にそって掃き掃除、拭き掃除。
糠床を1日1回かき混ぜたり、床下収納から物を取り出す、農業は四つん這いではないですがしゃがみながらの作業の連続。
子供は砂遊びや石や虫拾いのすべてでしゃがんだまま。
便利になり、四つん這いどころかしゃがむ機会も激減している。
それが今回のショヒモトレでは今まで以上に強調されたように感じました。
ヒモトレの面白さは巻き方の多さです。
ただのヒモなのに…と思いましたが、日本人はヒモ一本、布一枚で様々なものの形や重さに合わせて巻き方、包み方を工夫してきた文化を持っているんで当然っちゃ当然。
風呂敷なんてまさに。
でね、体って見た目は(中身も)ヒトである以上、大差ない。
なのに、いざ同じような体の特徴や姿勢が強調されているにもかかわらず巻き方が異なる。
ヒモトレは誰かがこう巻いているから…というキッカケはあっても、それが必ずしも巻いている人の良き方向になるとは限りません。
巻き方が多く出てきているのは、「それぞれのしっくりするところ」をそれぞれが探していったからだと私は感じてます。
にしてもですよ、部分が強調されてしまった体から全体性の過不足がほとんどない体に為ることで明らかに書が変わる。
そこに双鳳先生の書法指導が入るともう別人。
自分で書いたのに「誰が書いたんやろ?」と思ってしまうほどに。
前回の反省を生かして体の全体性とは?というところから入って、足からヒモトレや遊びのような運動をしていただきました。
(ようやくレポートです)
ヒモトレ界隈では(どんな界隈やねん)足指に巻くのが盛り上がっていますが、果たしてそれが部分になっていないか、全体性に繋がっていくのか、というところを試していただきました。
先日の東京での出逢いで購入したNASYUのフットプラスを使ってみる。
巻いた方が足指の可動範囲が広がっている感じがする、という声をお聞きしながらフットプラスを足指で受け渡ししてもらう。
今回は座ったまま。
ほんとは立った状態で受け渡しをする方が全体性が観えやすいんですが、万が一を考えて座ってさせていただきました。
書道は座ってるんやから関係ないと思われる足。
ですが足が「ある」のと「ない」のでは書が違う。
それは日常生活でも、スポーツでも一緒です。
日常生活にも関わってくるということは、それ以外は地続きなので当然んですよ。
で、足指とお腹のヒモトレを基本に、四つん這いの時にそれぞれの全体性に合わせて巻き直しさせていただきました。
本人も気づかないほど姿勢は変化しましたが、なんせ書に夢中ですからそこは気にせず。
姿勢を注意せず、されず、それに集中できるっていいですよ。
今回の書き初め、書いた回数は5回?5枚?のみ。
うち最初の1枚は何を書くかを試しに書いた程度ですから、実質4枚。
双鳳先生の書法指導後に書いたのはたった3枚。
それでも線質が別人のように皆さん書いておられましたから、回数だけではないということがわかります。
いやほんと、めちゃくちゃ面白かったです。
カエルジャンプもやりましたが、双鳳先生の身長で跳ぶと迫力が違う、
というよりも、やっぱり動ける体がある。
それでもお腹にヒモがあるのとないのでは跳び方がちがうと仰ってました。
体の上下の繋がり、施術でも同じです。
双鳳先生、アシスタントのNさん、ご参加いただいた皆さん、貴重な時間をご一緒させていただきありがとうございました。
また次回も宜しくお願い致します。
それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!