2019年2月11日(月・建国記念日)
おはようございます
家の中の方が寒い!
外の方が過ごしやすいと感じるほど。
でも嵐山はそこそこ雪が降っていますが、ここらへんは…チラチラもしない。
この寒さと朝ドラのせいでチキ◎ラーメンを食べたくなってしまった。
内田樹【街場の教育論】(ミシマ社)
師と弟子のことも書いてあります。
そしてそれは教育をする、受けるを考えても「学び」とはこういう関係性がないと成り立たない。
第7講 踊れ、踊り続けよ の学びのシステムは存在するか(141〜143項)から一部抜粋。
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教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思ういます。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。
(中略)
「私もかつては師の弟子であった」と告げるということです。教壇をはさんで行われる知の運動を信じるというのはそういうことです。「私には師がいた」というのが、教師が告げるべき最初の言葉であり、最後の言葉なのです。
ですから、学びの場というのは本質的に三項関係なのです。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。
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これは人前で何かを伝える時に忘れてはならないこととして意識しています。
内田先生は【この「(その場にいない)師の師」こそが学びを賦活する鍵なのです】とこのクダリを結んでおられます。
先日、スポラボでヒモトレをお伝えさせていただいた時の最後に伝えさせていただいたことです。
私が教わった人を必ず伝える。
ここでいうところの師の師。
私が弟子の時、師匠から開業する前に師の師のところで学んでこいと言われ行きました。
その翌日からの私は「水を得た魚」のようになっていたと、のちに聞かされました。
確かに、師の師に会うことで師のあれこれが観えたことがあり楽しくなったのを覚えていますが、その師の師にも師の師がいるということ、そこには知らないという果てしない世界への気怠さと、それを知っていく、学んでいく楽しみが自身に広がっていった。
今ならそう言えます。
この本に限らず、ミシマ社の本は特に伝える側の心構えというか、抜け落ちてはいけないことを知ることが多い。
それは本の手触りも含めてだと思うんですがね。
本はその場にいない師の師だけでなく、師その人もその場にいませんが、言葉がある。
それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!