Total Treatment Centerのつぶやき「看脚下」

京都市下京区の鍼灸院が日々で感じたこと思うことを呟いているブログです。

争ってどうすんねん

2021年9月9日(木) 9時〜19時

 

おはようございます

昨日からの雨はまだ続いています

そろそろやむそうですが蒸すのは変わらない

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台風14号がブーメラン進路をたどり出してるやん

 

施術予約の際は此方でご確認ください

https://tsuji-shinkyuin.hatenablog.com/entry/2020/12/31/174838

随時更新してます

(休診は赤短縮は青ゴールデンウルヴス福岡は橙・平常通りは黒)

 

専門的哲学者というものは、どのような気質をもった者であっても、哲学するに当たっては、自己の気質という事実をつとめておし隠そうとする。気質が論拠になるなどということは伝統的に承認されていない、そこで専門哲学者はその結論に拠って来たる理由としてただ没人格的な論拠のみを主張する。けれども実は彼の気質の方が、これよりも厳密の客観的な前提のいずれよりもいっそう強く哲学者の傾向を定めるのである。気質はそれぞれ哲学者に直接の証を与えて、あるいは感傷的に傾く宇宙観を抱かせ、あるいはむしろ冷酷な宇宙観に走らせたりする、それはちょうどこの事実なりあの原理なりが行うところと同じである。哲学者は自己の気質に安んじて身を委している。哲学者は自己の気質に適する宇宙を求めるがゆえに、それにかなった宇宙解釈であればどんな説でもそれを信頼する。彼は自分と反対の気質をもつ人々は世界の性格と調和しないものと感じ、彼らは、たとえ弁証の能力において遥かに彼を凌駕していようとも、哲学の仕事にかけては無資格なもの、「それにあずからぬ」人であると心ひそかに考える。

しかしながら公の論壇においては、ただ自己の気質を根拠とするだけでは判断力の卓越さや権威を要求することはできない。ここにおいてわれわれの哲学的議論には一種の不誠実が生じてくる、すなわちわれわれのすべての前提のうち最も有力なものに決して触れないという不誠実である。

 

_____W.ジェイムズ著 桝田啓三郎訳【プラグマティズム岩波文庫_____

 

哲学者に限らずな話

当時の私が毎年これをどう感じるか知りたくて昨年Facebookにメモしておいた引用部分

何を前提としているか共有されていないと齟齬どころか全く別次元の話になってしまう

と同時に優劣などで争ってしまう現実がある

その内容がそれぞれにかなった解釈をしているからタチが悪い

お互い様なのに

相手が何をもって前提としているかを訊くこと

忘れんようにしよ

 

それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!