Total Treatment Centerのつぶやき「看脚下」

京都市下京区の鍼灸院が日々で感じたこと思うことを呟いているブログです。

運動?感覚?

2022年2月10日(木) 9時〜13時

 

おはようございます

徐々に気温が上がっている?

気温と体感が合わないというか揺さぶられてるなあ

本日2/10は短縮ですが、明日2/11から明明後日2/13まで休診となります

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施術予約の際は此方でご確認ください

https://tsuji-shinkyuin.hatenablog.com/entry/2020/12/31/174838

随時更新してます

(休診は赤短縮は青ゴールデンウルヴス福岡は橙・平常通りは黒)

 

いろいろ書いては消し、書いては消し

時間は過ぎていくなあ

 

三木成夫「内臓とはたらきと子どものこころ」(築地書館) 86項より

ふつう生理学では、何か物を見て、それを神経が脳に伝え、その指令が、こんどは筋肉におよんで、運動になって終わる。そのように教わりますが、この、つまり、感覚が原因で、運動が結果だという考え方は間違いです。その証拠に「犬も歩けば棒にあたる」というのがあるでしょう。動いたから新しい感覚が起こるということもあるわけです。ここでは運動が原因で、感覚が結果です。だから正確に申しますと、感覚と運動というものは、どちらが原因で、どちらが結果であるというものではない。原因・結果として結びつけるのはじつは人間の、どうしようもない"わがまま"なのです。あるいは道楽といってもいい・・・・・・。それじゃ、どう言えばいいのか。「感覚あるところに運動あり、運動あるところに感覚あり。」どちらが先ということは言えない。感覚と運動は互い聯関する、というのが正しい言い方です。

 

子供の成長を見ているとこの言わんとしていることがよくわかる

原因・結果として結びつけるのは人間の中でも「大人」といわれる人たちなんだろうな

そして子供から動くことで新しい感覚が起こる機会を奪い、大人の都合で動き新しい感覚が起こらない、つまらない日常になっていく

反発すれば反抗期と一括りにされる

その反発も大人側から見ての話であり、子供からすれば新たな運動と感覚を経験したいだけかも知れない

 

会話は必要だと思うが、言葉にならないことは会話には出てこないしありきたりな言葉にすれば伝わらないと知っているから話さなくなる

親が子供とのコミュニケーションで話し合うことに注目するが、ただ寄り添うということも必要だろう

時期によっては会話や言葉以上に必要だと思う

 

ちなみに、施術でやっていることはこの運動・感覚に時差がないかどうかを確認しています

時差が大きければ大きいほど、運動でも感覚でも身体にとって負荷となるので思考もまとまりにくい

負荷がゼロになることはないけど、時差がないことが前提となるかと

まあ人によってはその時差を楽しんでおられます

しかし施術を生業としている私にはそれは仕事放棄となる

 

それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!