2019年2月6日(水)
おはようございます
雨降りそうな空。
どうやろな、外のぬるさが雨を呼びそうな…
昨日は某病院のリハビリセンターで理学療法士の方へ徒手検査や触れ方を伝えに行きました。
昨年から不定期に伺っていますが、昨日は理学療法士1年目の方が新しく参加と少人数でしたので、一人一人の立ち位置と向き合っていただきました。
たった靴半足分立ち位置を変えるだけで、前屈みの上体を少し起こすだけで、筋反射をみる際の抵抗の手の添え方を変えるだけで、負荷にならない、それ自体がすでに施術になる検査へと為る感覚を探ってもらえるように伝えながら、私自身の修正調整も。
やはり、施術者自身が整っているかどうか、これが徒手検査を左右してしまうということが大いにあります。
毎日変化し続けている身体と向き合う術があれば、その日のベストで患者さんを迎えられますから、そういう機会も必要です。
それは個々それれぞれで見つけていただければ。
センスがあるかないかは重要ではない。
先月、保育園でさせていただいた子育て講座で私が感じたのは「運動音痴はいない」です。
6歳以下のこどもたちに運動音痴はいない(大人も含めて)。
ではどこから運動音痴になるのか?というのは、こうしなきゃダメということに大人が囚われすぎ、それに当てはまらないことを咎めてしまうことで【運動をやめてしまうことにより、運動音痴が生まれる】のではないかということ。
大人が作りだしている、と私は感じました。
出来ないことが恥ずかしいのではなく、できるできないは問題ではなく、体を動かして遊ぶのが好きなんやからそれを妨げないこと。
その中で大人ができることは1動作を2動作にしたり、3動作にしたりと複雑にしてみる。
少し混乱させる感じ。
こどもを観ていて感じるのは、この混乱を楽しめるということ。
頭ではなく体で考えているときは。
大人が言葉を細かに用いると「あー!」とパニックになってしまいますが、ただ行動を、運動を見せるだけ。
するとこどもはワクワクしてそれをやってみようとする。
まずやってみる、という運動が始まっている。
できるできないという物差しでハカルことをしないことが大人に求められている。
そう感じたのを新鮮に、鮮烈に覚えています。
そしてそれは、スポーツや施術でなら「センスのあるなし」で評価してしまう。
いやいや、それこそ「センス」という言葉を用いた人の基準であって、それ以外の人には関係のない話。
巻き込まないでいただきたい。
師匠と「センス」の話で何度も呑んだのを思い出しますが、伝えている人の何を観ているかとトライ&エラーを繰り返すしかない。
「センスは誰にもある」というのが今、私が思うところ。
1年目だろうが20年目だろうが、経験が邪魔することもあるわけです。
どう生かすか、工夫するか、どう伝えるか、その人の可能性を狭めないために。
とりあえず昨日は、可能性の一端を魅せることができたかな。
それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!