Total Treatment Centerのつぶやき「看脚下」

京都市下京区の鍼灸院が日々で感じたこと思うことを呟いているブログです。

待てができない私

2021年11月11日(木) 9時〜19時

 

おはようございます

昨夜?昨夕?に雨がパラパラと

そのあと空は雲がなく

放射冷却というやつでしょうか

今朝は冷えますね

といってもまだ9℃前後

まだまだこれからです

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施術予約の際は此方でご確認ください

https://tsuji-shinkyuin.hatenablog.com/entry/2020/12/31/174838

随時更新してます

(休診は赤短縮は青ゴールデンウルヴス福岡は橙・平常通りは黒)

 

鷲田清一氏が自著「ひとはなぜ服を着るのか」(ちくま文庫)の中で、三宅一生氏のデザインについて考察しているところがいいなと思う

「第二の皮膚」ともいうべきそうした服は、身体を服で密封するのではなく、むしろ身体と服のあいだに空気をたっぷり含み、動きやすいようにその間をむしろ生かすようなものでなければなりません。つまり、緩みと"ずれ"、あるいは"すきま"が積極的に生かされた服です。いいかえると、着るひとが最終的なかたちを決めるような未完成な服です。大きなひとも小さなひとも、細いひともふくよかなひとも、その活動のしかたに応じてそれぞれに着こなす《一枚の布》というのが、基本コンセプトです。

このような三宅の服は、よく、「空気を孕んでいる」とも評されます。それは身体をぴちっと覆ったり、包み込んだり、締めつけたりするのではなく、衣服と身体のあいだにゆったりした間隙(歯車の"あそび"のようなもの)を作りだします。衣服を身体に合わせるとか、身体を衣服に合わせるとかいった窮屈な関係が問題なのではありません。間を埋めないその服作りにおいて問題なのは、そのような物質体としての身体ではなく、空間に宿り、跳ね、たゆたう波動としての身体、あらゆる強度としての身体なのです。その波動、その強度を、服の中に閉じ込めるのではなく、むしろ外へと引きだすような服を創ること、それが三宅のデザイン行為を貫通するポリシーだと言えます。

 

間近にね、これを施術でやってるひとがいる

だるま堂の中西眞先生(一部の方たちには"小池さん"と呼ばれてます 笑)

https://daruma7korobi8oki.com/

衣服を施術者、身体を患者に置き換えて読むと、私が抱いている中西先生の印象に一番近い

なのでこれ以上言葉を継げば壊れてしまいかねないのでこのままにしておきます

 

私自身はまだまだこの間隙を埋めようとしてしまう

言い換えれば、押し付けてしまっている

徒手検査で今わかっていることを明らかになっているにも関わらず、です

どうしてもこの"間"を怖がってしまう

結構大きな課題なんですよね

ご指導いただいている髙橋透先生も中西先生も、この"間"は辛くもあるとは思うんですが、どちらかというと楽しまれている

こども心そのままな大人ってこういう人たちのことをいうのかなと思うほどに

 

こどもってこの"間"がたっぷりある

なので大人が身勝手に焦れてしまう

いやいや、焦れてどうすんねんと思うんですよ、しかも身勝手に

今、彼ら彼女らはこの"間"を生きてるのにね

 

待ててないな、私

 

それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!